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インタビュー|自分にしか見れない景色を見てきた男のストーリー【前編】記事転載

元記事:https://equalizer11.com/2018/08/04/shimono/

掲載日:2018年8月4日(EQUALIZER)

photo via jpv marikina fc

下野淳という日本人ボランチのプレーを初めて見たのは2013年のことだった。下野は2009年から4シーズンに渡りアルビレックス新潟シンガポールでプレーした後に、Sリーグのローカルクラブであるウッドランド・ウェリントンに移籍。リーグでも下位に沈む弱小チームで孤軍奮闘する下野は、戸田和幸、櫻田真平、乾達朗らを擁する強豪ウォリアーズFCを相手に果敢なチェックで徹底抗戦を演じ、こぼれ球からの強烈なミドル弾を自ら突き刺すなどチームに大きく貢献する。

 下野はその後もSリーグを主戦場とするものの、クラブのリーグ撤退騒動や外国人枠の削減などの影響もあり、ミャンマーやモルディブの劣悪な環境下でのプレーを余儀なくされる。給料の未払いが恒常するような不遇の時期を過ごした後、2017年からはフィリピンに活躍の場を移している。JPVマリキナFCで2年目のシーズンを戦う下野が、トレードマークのポニーテールを揺らしながら約束のカフェに姿を現した。(フットボールライター・池田宣雄【マニラ】)

下野淳

1988年生まれ。神奈川県大和市出身。帝京大学を中退してJAPANサッカーカレッジに進学。2009年からシンガポールに渡り、アルビレックス新潟シンガポール、ウッドランド・ウェリントン、ホウガン・ユナイテッドなど、Sリーグの舞台を主戦場とした。ネピドーFC(ミャンマー)、ヴィクトリーSC(モルディブ)を経て、2017年からフィリピンのJPVマリキナFCでプレーしている。30歳となる今シーズンはゲームキャプテンを務める。マニラ在住。

photo via wwfc

◆ロナウジーニョに憧れた高校生

僕は神奈川の県立高校でサッカーをしていました。強豪とは言えない高校でしたが周辺では一番強いところでした。当時はロナウジーニョ全盛の時代で、僕もかなり影響されてトップ下とかワイドな位置とかで自由にプレーしていました。

神奈川のほとんどの高校は、高3の夏休みまでに冬の全国高校選手権の県予選が終わってしまいます。僕たちも桐光学園に負けてしまって、夏休みの直前にサッカー部を引退しました。特にサッカーでの進路はなかったのですが、一度練習試合で対戦した帝京大学が良いサッカーをしていたので、学校推薦の形で帝京大学に進学しました。

もちろんサッカー部に入るつもりでしたが、サッカー部が東京都リーグに降格していて、ここで4年間やったところで何があるのか、と考えてしまって。漠然とプロサッカー選手になることは描いていたのですが、たぶんここではないなと。

自分の甘えもあったのですが、サッカー部にも入部しないで授業にもほとんど行かず、居酒屋とかラーメン屋でバイトしながら遊んでしまったんです。それで1年の夏に中退を決意しました。

◆日本の底辺の底辺にいた男の進む道

地元のチームでは時々ボールを蹴っていました。毎日練習していた頃と比べても、そんなにコンディションは落ちてないなと思っていました。自分はどうすればプロの世界に辿り着けるのか、本気でサッカーをする場所を探していました。

そんな時に小・中学時代の先輩から、JAPANサッカーカレッジはどうか、と言われ調べてみたら、ギリギリ間に合いそうな感じでした。それで両親に自分の意思を伝えて大阪開催のセレクションに参加して、入学することになりました。

ギリギリのタイミングで入学が決まったので、学校の状況は分からなかったです。僕の先輩は誰もいないし、進路として真剣に情報収集していた訳でもないし。何も知らないまま新潟に向かいました。ですから、トップチームに契約選手がいることも、全国レベルの高校出身者がいることも、新潟に行ってから知りました。

実際に僕が振り分けられたのは、新潟県リーグに所属する3軍のチームでした。正直、思っていたのと違って面喰らっていたのですが、両親や先輩の手前、もう必死で、死に物狂いでやらないとダメなんだと。自分で言うのも何ですけど、僕のストーリーはJAPANサッカーカレッジから始まったようなものですね。

◆中盤のオールラウンダーへの転身

3軍のコーチが僕を気に入ってくれて、最初はサイドとかトップ下で使ってくれました。僕も3軍で結果を出して、できるだけ早く北信越リーグでやってるトップチームに上がりたくて。当時の北信越リーグは、松本山雅とか、長野パルセイロとか、ツェーゲン金沢とかもいて、すごく熱いカテゴリーでしたから。

でも、サイドとかトップ下のポジションでの自分のプレーに違和感を感じていました。やっぱり、高3の夏から1年半以上、ちゃんと練習してこなかったので感覚がなかなか戻らなくて。それでコーチからの助言もあって、中盤のすべての位置で試して行こうということになりました。実際には身体的なコンディションが落ちていたことにも気づきましたし。

シーズンの最後には2軍の練習にも呼んでもらえるようになりました。それからシーズンが終わったタイミングで、2年目はシンガポールに行かないか、とチームの人に言われたんです。毎年10人くらいの学生選手が行くのですが、その年はちょっと希望者が少なかったようで。

当時は今と違って、アルビレックス新潟シンガポールから、アジアのプロチームに移籍を果たした例は多くなかったのですが、レベルの高い契約選手に混じってプレーして、アジアでもどこでもいいからプロになってやろうと、シンガポール行きを即決しました。

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