ベトナムフットボールダイジェスト+

【 ベトナムサッカー回顧録】南北統一親善試合で伝説のバイシクルシュートを決めた南ベトナム代表選手の回想

ベトナムは去る4月30日に45回目の南部開放記念日を迎えた。1975年4月30日、南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、長かったベトナム戦争が終結。その翌年、初めて南北のベトナムを代表するクラブチームによる親善試合が開催された。北部代表に選ばれたのは、当時北部で最強だった鉄道総局(TCDS)。

この鉄道総局が南部に遠征して南部の強豪と連戦する南北ベトナムダービーが1976年に実現し、国民的イベントとして大変な注目を集めた。そのトリを務めたのが当時南部で敵なしと言われたハイ・クアンFC(税関局チーム)。今回は当時のサイゴンをよく知る、ハイ・クアンFCの往年の名選手ホー・タイン・カン氏にお話をうかがった。

-サイゴンで育ち、45年前に名選手として名を馳せたホー・タイン・カンさんですが、当時のことをどのように記憶していますか?テレビでは、この時期になると毎年、旧大統領官邸の門を北ベトナム軍の戦車が突き破り、兵士たちが大統領官邸の屋上に駆け上がって北ベトナムの国旗と南ベトナム解放民族戦線の旗を掲げる記録映像が繰り返し流されていますが・・・。

「サイゴン陥落となった4月30日の前日、本当のことを言えば不安だった。サイゴンに住む多くの人々も同じように感じていただろう。悪い人たちが誇張して(略奪されるなど)良くない噂を流していたからだ。しかし、それは杞憂に終わり、すぐに不安はなくなった。統一後も普段通りの生活だった。4月30日の午後も私と兄弟はタオダン運動場に行ってボールを蹴っていたよ。」

-当時の南ベトナムのサッカーについて教えてください。

「1975年以前、南部には12のサッカーチームがあり、国際大会があると、出場権をかけた選考大会を行っていた。南部の人々は当時からサッカーが大好きだった。南ベトナム代表として、フランス五輪代表と試合したこともある。その試合で私は同点弾となるゴールを決めたが、結果は1-4で負けてしまった。しかし、ゴールを決めたことでフランス紙に私の名前が載った。フランスはとても強く、どの大会でも先制を許したことがなかった。1974年までに、南ベトナム代表でもう1ゴール決めている。あれはインドネシア代表との試合で、我々が2-0で勝利した。これまでの人生で数多くのゴールを決めてきたが、1976年の鉄道総局との試合で決めたゴールは格別だ。」

-どんなところが特別だったのでしょう?

「まずは当時の社会状況がある。1976年は、南部開放から1年が過ぎた時期だ。当時開催されていたクーロン選手権で、我々のハイ・クアンFCが優勝して南部最強の称号を得た。一方の北部では、鉄道総局が最強と言われていた。そんなチームが遠征して南部の代表チームと試合をするというのだ。南北のチームが試合をするのは、これが初めてだった。」

「鉄道総局は、我々ハイ・クアンFCと対戦する前、既にタイニンFC(2-0)、カントーFC(3-1)、ドンタップFC(2-0)を相手に3連勝。さらには、トンニャット・スタジアムで開催された強豪カン・サイゴン(サイゴン・ポート)との試合でも2-0で勝っていた。私たちは、連戦連勝で破竹の勢いを見せる鉄道総局に恐れ戦いていた。北部代表が南部代表に4戦全勝。地元で5連敗では面目が立たない。我々が試合の準備のため、スタジアムの観客席前を通った時、ファンたちから“意地を見せろ!サイゴンの名誉を守れ!”と声をかけられた。」

次のページ

1 2
« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ