「いま、なぜASEAN諸国のサッカーに目を向けるのか?」池田宣雄(フットボールフィリピン)×本多辰成(FOOTBALL THAILAND)特別対談/前編(「J論」記事転載)
“ライターの数だけ、それぞれの人生がある”。ライターが魂を込めて執筆する原稿にはそれぞれの個性・生き様が反映されるとも言われている。J論では各ライター陣の半生を振り返りつつ、日頃どんな思いで取材対象者に接して、それを記事に反映しているのか。本人への直撃インタビューを試み、のちに続く後輩たちへのメッセージも聞く前後編のシリーズ企画。第10回は『フットボールフィリピン』の池田宣雄氏と『FOOTBALL THAILAND』の本多辰成氏に話を聞いた。
(取材・構成/郡司聡)
▼日本人選手への直談判
ーーまずはお二人のサッカーとの関わりとライターになったきっかけからお話を聞かせてください。本多さんからお願いいたします。
本多 プレーヤーとしての経験はないのですが、昔からサッカーを見ることが好きでした。浜松出身なので、自然とジュビロ磐田のファンになりましたね。その一方で高校サッカーを見ることも大好きだったんです。仕事としては専門学校を卒業後、出版社に7年間勤務し、野球やバスケットボールの雑誌を作ってきましたが、不思議とサッカーに縁はありませんでした。出版社に勤務する中でスポーツライターになりたいという意欲が湧いてきたのですが、まずライターになることは置いておいて、海外で働くために日本語教師の資格を取得しました。
ーー少し回り道をした印象ですが……。
本多 ただ日本語教師の資格を取得したあと、たまたま2011年にタイへ、現地の日本語教師として赴くことになったのが一つの転機となりました。当時はバンコクの公立高校で日本語クラスの講師をしていました。同じタイミングで当時のタイ・プレミアリーグに日本人選手が増えた時期でしたし、タイでプレーする日本人選手を取材できたらいいなという思いで日本人選手に「取材をさせてください!」と依頼し、現地の日本語媒体に記事を書き始めたことがサッカーライターとしての始まりでした。次第にタイのサッカー界も盛り上がりが大きくなって、タイがW杯の最終予選まで進出し、チャナティップがJリーグでも活躍するようになりましたし、その流れに乗ってと言いますか、現在はタイサッカーと東南アジアのサッカーにフィーチャーしながらライターをやらせていただいています。
ーーちなみに2011年当時に取材した日本人選手は具体的にどんな選手たちですか?
本多 マリノスでもプレーしていた丸山良明選手や磐田などにいた河村崇大選手、そして名古屋グランパスなどでプレーしていた滝澤邦彦選手などを取材しました。まだ2011年はタイ代表の低迷期とも言える時代で、W杯予選でもスタジアムは閑古鳥が鳴いているような状況でしたが、2014年にキャティサック・セーナームアン監督が就任してからいまのタイサッカーの勢いにつながる状況が生まれました。それによってタイサッカーを取り巻く環境も変化しました。また2014年は日本人選手がタイでプレーしていた一つのピークとも言える時代で、岩政大樹選手やカレン・ロバート選手もタイのプレミアリーグでプレーしていたぐらいです。2011年にタイへ渡ってから2017年の春ぐらいまではタイを拠点に活動していました。
ーーいろいろな縁とタイミングが合ったのですね。一方で池田さんのサッカーとの関わりとライターになるきっかけとはどんなことだったのですか?
池田 プレーヤーとしては中学時代に地域の選抜に選ばれたこともありましたが、いろいろと考えた結果、地元の公立高校に進学したことが選択ミスでした。結局、高校時代の3年間は何も残せず、高校卒業の折に、都リーグの大学のセレクションに受かりましたが、小学3年生から高校3年生まで、計10年間プレーしてきたので、やりきった感があったのでしょう。いまとは違って細身のプレーヤーだったのですが(笑)、将来に備えて大学進学を機に高校でサッカーを引退しました。
ーー本多さんとは違って、池田さんはプレーヤー出身なのですね。大学では何を専攻されたのでしょうか?
池田 特に将来の目標もなく「とりあえず中国語でもやっておこうかな…」ぐらいのテンションでした。ただ私が大学を卒業する頃は、いまほど”中国!中国!”していない時代だったのですが、学部の先輩方が中国でエース級の仕事をしている方が多く、中国語を話せる人材は結構良い就職口があったんです。それで私も中国語を専攻したばかりに、物流会社に就職すると日本と中国を行き来する生活が始まりました。そして新卒の3年目で上海駐在になったんです。当時はまだ中国のサッカーはいまほど盛り上がっていませんでした。親善試合でアビスパ福岡が上海にやってくることもありましたが、サッカーに触れる機会はそれほど多くなく、42歳になるまではサッカーとは疎遠の生活を送っていました。
▼フィリピン・サッカーの奥深さ
ーーではそこからサッカーに触れる機会が多くなったきっかけは何だったのですか?
池田 42歳当時の私は香港に住んでいました。香港と広東省はイミグレを挟んだ同じ経済圏であるため、仕事で香港と広東省を行き来している中で、次第に香港プレミアリーグと中国スーパーリーグを観る機会が増えていきました。香港は秋春制で、中国は春秋制でリーグが開催されているため、1年中観戦できる環境にいました。当時、香港の日本語フリーペーパーに月1回1,500文字ぐらいの執筆を依頼されたのですが、「書けるとしたらサッカーだけですよ」とお伝えしながらもお声掛けいただき、サッカーの記事を書く機会を得ました。そしてその記事を読んでくれた日本の編集者の方から、中国サッカーに関する記事を依頼されたことで、ライターとしてのスタートラインに立てました。
ーー入り口は香港や中国だったのですね。
池田 はい。日本や中国のクラブチームはアジアのコンペティションで一番上のカテゴリーであるACL(AFCチャンピオンズリーグ)に出場しますが、香港のクラブチームは主にその一つ下のカテゴリーであるAFCカップに出場しています。そのAFCカップではASEAN諸国のクラブチームも出場していて、普段香港と中国のサッカーを観ていた私の眼にはすごく新鮮に映ったんです。例えば、マレーシアにはジョホール・ダルル・タクジムFCという素晴らしいクラブチームがありますし、こうした日本のクラブチームが出場しないAFCカップでASEAN諸国のクラブチームを観ることが面白くて、将来的には記事になるだろうという期待感を持っていました。そして、このAFCカップという大会を通じてフィリピンサッカーとの出会いがあったんです。
ーーフィリピンサッカーのどんな魅力に惹かれたのでしょうか?
池田 興味深かったことは、いわゆる母親がフィリピン人であるフィリピンハーフの選手たちが代表メンバーのほとんどを占めるという環境です。その背景には、フィリピンサッカー連盟が10年ほど前からフィリピンハーフの選手たちを代表に招集するという方針が隠されているのです。いまのフィリピン代表には、欧州のクラブチームの下部組織で育ったフィリピンハーフの選手たちが多く招集されています。例えば、GKニール・エザリッジはチェルシーの下部組織の出身で、いまはプレミアリーグのカーディフ・シティの第一GKです。また、浦和ユースから仙台大学を経て、フィリピンのグローバルFCでプロになり、現在はルーマニアのセプシ・スフントゥ・ゲルオゲでプレーしている佐藤大介選手や、聖和学園から同じく仙台大学とグローバルFCを経て、現在はタイのJLチェンマイ・ユナイテッドに所属している嶺岸光選手など、日系フィリピン人の活躍も非常に面白い素材です。そもそもフィリピンサッカーをベースに書く人も少ないですし、いまのうちからフィリピンサッカーを書いておきたいなと思った次第です。
(後編「“ASEAN諸国のW杯”スズキカップとは?」)
【プロフィール】
池田宣雄(いけだ・のぶお)
神奈川県出身のフリーライター。香港で本格的な執筆活動を開始。主な寄稿先は「アジアフットボール批評」「フットボールエッジ」「イコライザー」など。現在は日本とフィリピンを行き来する日々。コスワースアジアリミテッド代表。
本多辰成(ほんだ・たつなり)
1979年生まれ、静岡県浜松市出身。7年間の出版社勤務を経て、2011年に独立。2017年までの6年間はタイ・バンコクを拠点としていた。主な寄稿先は「スポーツナビ」、「アジアフットボール批評」、「アジアサッカーキング」など。
蹴球界のマルチロール・郡司聡
30代後半の茶髪編集者・ライター。広告代理店、編集プロダクションを経て、2007年にサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』編集部に勤務。その後、2014年夏にフリーランスに転身。現在は浦和レッズ、FC町田ゼルビアを定点観測しながら、編集業・ライター業に従事している。2015年3月には町田市のフットボールWebマガジン『町田日和』(https://www2.targma.jp/machida/)を立ち上げた。マイフェイバリットチームは、1995年から96年途中までの“ベンゲル・グランパス”。