フットボールフィリピン

インタビュー|母親の祖国で現役を続ける元Jリーガーの軌跡【前編】記事転載

photo via davao aguilas bellmare fc

J1戦士たちの加入と自身のコンディション不良で

J1に上がった2002年は状況が一変しました。すでにヴェルディから岩本輝雄さんが来ていた上で、サンフレッチェから森保一さん、マリノスから小村徳男さん、レッズから福永泰さん、アビスパから山下芳輝さん、トリニータから片野坂知宏さんとか、経験豊富な選手たちがやって来ました。

みなさん本当に良い人たちで、僕もかわいがってもらいましたが、上でやってきたベテラン選手たちと、下しか知らない20歳の僕では、プロサッカー選手としての「心・技・体」のレベルが比べものになりません。

試合の準備にしても、普段の生活習慣にしても、言われなくても当たり前にできる選手と、なにひとつ知らない僕のような選手が同じピッチに立った訳です。それはもう火を見るよりも明らかな、コンディションの違いが存在しました。

開幕からベンチにも入れない状況が続いて、日韓ワールドカップの中断期間には、提携していたサンパウロFCの練習に参加するためにブラジルに行かされました。同世代のジュリオ・バチスタとか、ルイス・ファビアーノとかいましたけどね。

プロサッカー選手としてのルーティーンがない僕には、パフォーマンスのバラつきがあったので、この年は全部含めても10試合出てないと思います。それで、全日程が終わってからフロントの人から電話があって、J2のサガン鳥栖へのレンタル移籍の話を聞きました。

photo via davao aguilas bellmare fc

◆レンタル移籍からの完全移籍、そして戦力外に

正直、4年目もベガルタでやりたかったのですが、残るならB契約になると言われたのも納得いかなくて、清水さんと直接話させてほしいと答えました。清水さんは「サガンで試合に出てからベガルタに戻って来い」と言ってくれたので、とりあえずサガンに行くことにしました。

サガンではあまり良い思い出がありません。自分自身が舐め腐っていたのが原因ですが、監督とも選手たちともやり合ってしまいましたし、途中交代でベンチに戻った時にユニフォームを叩きつけるとか、許されないことを平気でやってましたから。

サッカーの内容より、通っていた食堂のおじさんとおばさんに優しくしてもらったことと、僕を家族全員で応援してくれた方にお世話になったことが、印象に残っています。

その年にベガルタもJ2降格が決まって、清水さんも更迭されてしまいました。レンタルに出ていた僕は完全に蚊帳の外の扱いになっていて、一度も会ったこともない新しく来たフロントの人から電話が掛かってきて、いきなり放出の話をされました。

「いいか、よく聞けよ。横浜FCから完全移籍の話が来てるから、それで良いな」と切り出されて。知らない人によく聞けよとか言われて腹が立ちましたけど、リティさん(ピエール・リトバルスキー監督)が僕のことを評価してくれていたことは耳に入っていましたし、もうベガルタには居場所がなかったので移籍を決意しました。

横浜FCでは2年プレーしました。城彰二さんの家のそばに住んでいたので仲良くさせてもらいました。リティさんの練習メニューも工夫があって楽しかったのですが、リティさんが成績不振で更迭されてから状況が変わり、僕はいつものやさぐれ病を発症して、契約の更新はなくなりました。

その時まだ24歳だったのですが、僕は完全に行き場を失いました。今思えば、上で絶対にやれるという志だけは高いのに、自己管理も周りへのリスペクトもできない幼稚な選手でした。毎日シュークリーム食べてコーラ飲んで。どうしようもない馬鹿でした。(つづく)

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