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インタビュー|名門大学体育会サッカー部主将が26歳で海外挑戦した物語【後編】転載

元記事:https://equalizer11.com/2018/05/30/philippine-football-asia/

掲載日:2018年5月30日(EQUALIZER)

photo via malabanan

フィリピンリーグのカヤFCで7年目のシーズンを戦う大村真也は、約束の時間に待ち合わせのカフェに姿を現した。サッカーの名門大学で体育会サッカー部の主将を任され、一般企業での社会人経験もある大村は、26歳の時にオーストラリアの州2部リーグでプレーを再開した。そして、次なる場所となったフィリピンでの日々を、34歳になった日本人センターバックは、回想を交えながらひとつずつ丁寧に語りはじめた。(フットボールライター 池田宣雄・マニラ)

大村真也

1984年生まれ。愛知県出身。中京大中京高校から中京大学に進学。体育会サッカー部では主将を務める。大学卒業から約3年ほど一般企業に勤めていたが、オーストラリア3部相当のフレーザーパークFCでプレーを再開。2011年途中からフィリピン1部のカヤFCに加入。2015年に国内カップ大会で初優勝を果たし、自身も最優秀選手賞を受賞。翌2016年はAFCカップに出場した。マニラ在住。

◆次なる場所、わずかな情報を頼りにフィリピンへ

UFLはプロとアマが混在するセミプロリーグでしたが、外国人選手枠のルールがなかったので、契約に至る可能性があると聞いていました。そもそも物価が安い国なので、条件はかなり低いだろうけど、トライアウトを受ける気があるならチームを紹介するよと、そのハーフ選手が言ってくれたんです。

それで、タイのバンコクに数日滞在した後に、一度名古屋に戻ってからすぐにマニラに向かいました。今はもう廃線になったデルタ航空でマニラに到着した後、空港で出迎えの人となかなか会えず焦りましたが、なんとかチームの宿舎に辿り着きました。

宿舎は貧素なアパートの1室で、黒人ふたりと白人ひとりと僕の4人の相部屋でした。マットレスは4枚ありましたが、毛布はふたりでシェアしていました(笑)。さらに、ちょうど雨季の真っ只中で土砂降りの日が続いて、トライアウトが3日も延期されたんです。

その影響かどうか定かではなかったのですが、どうやらカップ戦への選手登録の期限が迫っていたようで、トライアウト当日の朝にオフィスに行ったら、契約書にサインしろと言われたんです。さらっと読んでみると、その契約書はシーズンコントラクトで、具体的な日付と給料額が記載されていました。

要するに、土砂降り続きの影響で延期されたトライアウトが行われる前に、時間がなくなったことで契約が成立してしまったんですよ(笑)。

アパートも汚かったし、条件についても交渉の余地は与えられなかったし、成り行きに任せてサインしましたが、他にチームがあった訳ではないのでなんとか耐えられました。それ以来、カヤFCでプレーを続けています。

最初の宿舎を脱出してから、マカティの外れの方での暮らしが始まりました。最初の頃は給料が安い上に貯えも枯渇していたので、いくら物価が安い国とは言っても食べるのに精一杯でしたよ。アパートの近くに安いローカルの食堂があって、ほぼ毎日、フライドチキンとライスとコーラ1瓶で60ペソ(約120円)という食事でしたね。

それから程なくして、マニラオールジャパンという日本人駐在員の皆さんが集う草サッカーチームの方々と知り合ってから、食事に誘ってもらえるようになりました。週に3回くらいご馳走になっていました。本当にありがたいお誘いでした(笑)。

photo via the manaksala

◆近所のローカル食堂から始まった大舞台への道

大学生の頃は、周りの選手たちのレベルが高かったので、自分がやるべき仕事が決まっていました。でも、オーストラリアと今のフィリピンでは、雇われた外国人選手としてやらなければならないことが多くて、常にいっぱいいっぱいの状態でプレーしてきました。責任と仕事量が増えたと言うか。

ただ、フィリピン代表レベルの選手たちとマッチアップしても、身体能力や技術レベルで負けているかと言えばそうでもなくて、いっぱいいっぱいながらもしっかり対峙できていると思っています。

フィリピンに来てから最初の3年くらいは、他のチームからも声を掛けてもらっていました。ただ、チームとは早い時期から良好な関係を築けていたので、契約が続くだろうという手応えは掴めていました。

カヤFCは、リーグでは中堅に位置するチームで、大枚を叩いて選手をかき集めるようなことはしませんが、きちんとバジェットを組んでいて、マネジメントやオーガナイズの部分もしっかりしているんです。

2年目からセンターバックでの出場が増えて、同時にチームキャプテンを任せられるようになりました。5年目のカップ戦で初優勝を果たした時は、最優秀選手賞的なものも受賞したりして、成果を上げたことで信頼関係が深まったように思います。翌年には目標だったアジアの大会(AFCカップ)にも出場することができました。

初めての国際大会出場だったので、グループステージで同組となった香港、シンガポール、モルディブへの遠征や、ノックアウトステージでのマレーシアへの遠征など、チームとして本当に貴重な経験を積むことができました。

ところが、寒い場所に遠征に行くことなんて今までなかったので、ベンチコートとか、移動で着る上着とか用意されていなかったんです。フィリピンは常夏ですから。

池田さんにご挨拶したあの時も、遠征直前に薄手のウィンドブレーカーが支給されましたが、香港に向かう機内で凍死するんじゃないかと思うくらいの洗礼を浴びました。みんなで旺角に行ってダウンジャケットを買った記憶があります(笑)。

ほとんどの試合をマニラで行うリーグ戦の合間に、海外遠征を含むアジアの大会を戦うという過密日程を初めて経験しました。僕ら外国人選手や海外でプレーしていたハーフ選手は大丈夫だったんですけど、カヤFCはローカル選手が多くて、疲労からコンディションを落としてしまいました。

それと、異なる環境でのプレーを経験したという意味では、ノックアウトステージで対戦したマレーシアでの試合は印象的でした。惨敗を喫してしまいましたが、敵地のスタジアムに2万人以上の観客がいて、完全に相手に呑まれてしまったんです。数百人の観客の前でしかプレーしたことがなかった選手たちにとって、あの試合の雰囲気は衝撃的でしたね。

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